「ぞうさん」と「しゃぼん玉」
喪主は27〜8才の若き作曲家、妻はバイオリニスト。
亡くした我が子を見送るために、ささやかな葬式が営まれた。
ささやかとは言い様で、その実2LDKのマンションには入りきらぬほどの弔問客が訪れた。
さぞやご近所迷惑であったろう。
しかし喪主の胸中には、生後2ヶ月の赤ん坊の最後を一人でも多くの人に見てもらいたいという願い以外は
何も存在し得なかった。
牧師さんの力のこもった説教と讃美歌のあと、居合わせた皆で童謡の「ぞうさん」を合唱した。
たしか童謡「ぞうさん」には戦時中の上野動物園の象にまつわる悲しい話があったはずだ。
童謡唱歌に限らず、歌にはそれ自体の悲しい生い立ち、ストーリーが隠されていることが多い。
中山晋平の名曲「しゃぼん玉」には、まさに我が子を亡くした者の想いが込められている。
この曲は、作詩の野口雨情が何番目かの子供を失ったときに書かれた曲である、
と知ったのはいつのことだったか・・・
2LDKでのこの悲しい葬儀の後、作曲家である喪主はそのことを知り、
以降「しゃぼん玉」こそ我が家のテーマソングだ、と、お得意の大いなる勘違いを始めた。
彼は四十を過ぎても未だに自分の創作の原点は「しゃぼん玉」と思い込んでいる。
自称しゃぼん玉研究家である彼の持論はこうだ。
1、しゃぼん玉の「たま」は魂の「たま」である
2、歌詞の最後の「しゃぼん玉飛ばそ」の件には、それでも飛ばすことに前向きな作者の気持ちの大きさが現れている
3、あっけらかんとした覚え歌の、本当の意味を大人が知ることで、より深く心に刻まれるということを
作者は承知している
4、この曲のモデルとなったのは、讃美歌の「Jesus Loves Me」である・・・など等
以来この話題になると、話は尽きない。
一番重要なことは、歌は「歌いたい気持ち」「歌でしか表現できない気持ち」から生まれる、ということだ。
政治なら声高に叫べばよい。説教なら粛々と、講義ならクールに、それぞれ言葉で伝えればよい。
それぞれ素晴らしい言語の文化である。
だが言葉では伝わらぬ心のほうが人間には多いではないか。
自分の肉親を失った悲しみを、歌以外の何を持って伝えられよう。
遠く離れた祖国を想う気持ちを、自分も生きているんだという実感を、はたまた平和を腹の底から願う時、
いったい「芸術」以外の何がその役目を果たすというのか。
音楽は魂を鎮め、また魂を開放する・・・まさに音楽こそ超能力。
私の知る限り、あのお葬式の「ぞうさん」ほどか弱く、か細く、消え入りそうな合唱は他にあり得まい。
私の聴いた、世界で一番小さな音。
そしてそれ以来、「しゃぼん玉」の中山晋平こそ私の目指すべき音楽家となった。