ケッコン・メンコン・ヘンデルコン?
結婚してまもなく、妻のある一言に百年の恋も覚めやらんショックを受けた。
「明日からオケ合わせなの・・・あたしメンコン弾くの・・・」
オケはオーケストラ、そしてメンコンとは・・・
メンデルスゾーンのコンチェルトのことである。
妻は私とひとつ違いで、一流音楽大学の大学院を主席で卒業した
ヴァイオリニストである。
しかも私より後に生まれておきながら一年早く入学した。
クラシック界では超エリートである。
そんな彼女からも平然と発せられる非音楽的スラング・・・
「じゃあ、ドボルザークのコンチェルトはドボコンなわけ?」と、私。
「そうよ、チャイコフスキーはチャイコン、ブラームスはブラコンよ。」と、妻。
私は軽いノウシントウのようなカルチャーショックを受けていたのだが、
妻にはそれがなんで・・・と思えたようであった。
「だってジャズの人だって言うじゃない、
シーメーにクーイーとか、C千だG百だとかもっとひどいじゃない・・・」
「それはジャズの逆さ言葉だろ、そんなのジャズの人だから言うんだ、
君に言ってほしくないな・・・」
「そりゃ確かに品はないけど、クラシックだって遊びはあるわ。」
私は少し冷静に考えてみた。
ジャズの逆さ言葉は下品だしナンセンスだが、そこにユーモアを感じる。
明らかに受け狙いで始まった言葉遊びだ。
ところがクラシックのそれは単純に言葉を縮めただけで、
むしろ滑稽な感じだし軽薄だし・・・
いや、軽薄なのはどっちもいっしょか ・・・
とにかくそれがそっちの社会の (日本のクラシック界の)常識だというのなら
何とも拭い去りようのない無力感を感じるのだ。
私は、ならばと決定的とも思える質問を浴びせた。
「んなら、ベートーベンのコンチェルトは・・・?・・・ベトコン・・・?」
答えはもちろんYesである。
他に交響曲の場合、ブラームスの交響曲第一番なら「ブライチ」、
チャイコフスキーの五番なら「チャイゴ」、
作曲家のプロコフィエフは「プロコ」で
ショスタコービッチは「ショスタコ」だそうである。
今となっては私も時々無意識に使っている言葉かもしれないが、
うぶだった当時の感覚は今も健在だ。
この現象はもしやロック界における「フェンダー」や「クラプトン」などの
「語尾上がり現象」に近いのではなかろうか。
あまりにも好きで、あまりに日常で、シンパな感覚であるとき、
人は語尾を上げて発音し、愛着の念を込める。
エアロビクスの先生が「タオル」の語尾を上げ、
たおる君のように呼んでいたこともあったっけ・・・。
あまりにベートーベンばっかり勉強しすぎると、
ベトナムに戦争があったことなども忘れてしまうのだろうか・・・。
しかしさすがにモーツァルトのコンチェルトを「モーコン」とか、
同じく第二番を「モツニ」・・・とは言わないらしい。
まあ単に紛らわしいからだろうけれど。
日本のクラシック界にモノ申す。
君たち、まじめに音楽をやりたいからクラッシクをやってんだろうが。
クラッシクにも、ノリやユーモアはあるんだろう。
だったらセンスの悪い言葉遊びはやめたまえ。
クラシックに飽きたのならジャズをやりたまえ。
そうでないと夢が壊れるんだ。
ひそかに憧れている私はどうなるんだ。